労務の課題で審査に落ちる会社の共通点 「36協定は出している」のに上場延期になるケースの実態

Point
  • 36協定は提出だけでは不十分で、実態との乖離や勤怠管理の不整合・形式的な労使協定があると上場審査で重大な問題となる。
  • 36協定を提出していても、特別条項の乱発や名ばかり管理職、部門任せの管理など運用実態に問題があると、上場審査で指摘され上場延期に至るケースが実際に起きている。
  • 36協定の審査通過には、協定内容の実態との整合・勤怠とPCログの突合・特別条項の発動記録の徹底・適正な労働者代表選出・残業状況の経営レベルでの可視化という5点の運用整備が重要。

はじめに――「出している」と「守っている」は全く別の話

「36協定はちゃんと提出しています。問題ありません。」

上場審査の事前相談で、この言葉を経営者や人事担当者から聞くたびに、私は慎重に質問を重ねます。なぜなら、36協定を「提出している」ことと、36協定を「正しく運用できている」ことの間には、深くて広い溝があるからです。

審査担当者が本当に確認したいのは、協定書の存在ではありません。「実際の残業時間が協定の上限の範囲内に収まっているか」「その証拠となる記録が整備されているか」「違反が発生した場合の是正の仕組みがあるか」――こうした運用実態です。

本コラムでは、「36協定は出しているのに上場延期になった」企業が現実に陥った落とし穴を整理し、CFO・人事担当幹部が今すぐ確認すべき実務ポイントをお伝えします。

36協定の「提出」が免罪符にならない理由

上場審査で問われる「実態との乖離」

36協定(時間外・休日労働に関する労使協定)は、法定労働時間を超えて従業員に残業させるために必要な届出です。しかし2019年の働き方改革以降、単なる届出書類から「遵守すべき上限規制」へとその位置づけが大きく変わりました。

上場審査において審査担当者が確認するのは、以下の点です。

  • 協定書に記載された上限時間数と、実際の残業時間の一致
  • 勤怠管理システムのデータと、PCログ・入退室記録との整合性
  • 特別条項を発動した場合の手続き記録(労使の合意・通知等)
  • 上限超過が発生した際の是正履歴

これらの「証拠の積み上げ」なしに審査を通過することは、現在の審査環境では極めて困難です。

「形式的な協定」が生まれる3つの背景

上場準備企業が36協定の運用で躓く背景には、共通したパターンがあります。

① 協定内容が現場の実態に合っていない

数年前に設定した上限時間数のまま更新せず、実際の業務量と乖離が生じているケースです。期末・繁忙期に恒常的に協定上限を超えていながら、「特別条項があるから大丈夫」と思い込んでいる企業が少なくありません。

特別条項は年6回・単月100時間未満・2~6か月平均80時間以内という上限が法定されており、これを超えた時点で違法状態となります。「特別条項さえあれば無制限に残業させられる」という誤解が、審査で致命傷になります。

② 勤怠管理が「自己申告」に依存している

従業員が自ら残業時間を入力する仕組みでは、「上限を超えると申請しにくい」という心理が働き、実態が記録に反映されなくなります。勤怠システムの打刻データとPCのログイン・ログオフ記録が乖離していた場合、審査担当者は「サービス残業が常態化していた」と判断する可能性が高いです。

この乖離が複数月・複数部署にわたって確認された場合、上場延期や申請の取り下げを求められることもあります。

③ 労使間の協議が形式化している

36協定は使用者と労働者代表が「協議して合意する」ことが前提です。しかし上場準備企業では、労働者代表の選出方法が不適切(使用者が指名した等)であったり、協議の記録が残っていなかったりするケースが見受けられます。

労使協議の適正性は、内部統制・ガバナンスの観点からも重要視されており、手続きの瑕疵が発覚すると協定自体が無効と判断されるリスクがあります。

実際にあった「36協定は出していたのに」上場延期のケース

ケース①:特別条項の発動回数が上限を超えていた

IT系のある上場準備企業では、開発部門の繁忙期に特別条項を毎月発動していました。年間の発動回数は9回に上っており、法定上限の6回を大幅に超過。しかも発動の都度、労働者代表への通知が行われておらず、手続き上も違法状態でした。

この企業は36協定を毎年適切に更新し、届出も行っていました。しかし「運用の実態」が協定の定めに沿っていなかったため、労務DDで問題が発覚し、上場申請を1期延期せざるを得ませんでした。

ケース②:管理職を「管理監督者」として残業代を払っていなかった

製造業の上場準備企業では、課長職以上を全員「管理監督者」として扱い、時間外手当を支払っていませんでした。しかし審査の過程で、これらの管理職に実質的な人事権・労務に関する権限がなく、出退勤も自由でないことが判明。「名ばかり管理職」として36協定の適用対象であったと認定され、数年分の未払い残業代が簿外債務として顕在化しました。

この債務処理に加え、是正後の運用実績を積む期間も必要となり、上場は2年近く遅れることになりました。

ケース③:部門ごとの協定管理が属人化していた

事業部制を採る企業では、各部門が独自に残業管理を行っていたため、会社全体での36協定の遵守状況を人事部門が把握できていませんでした。ある部門では月80時間超の残業が3か月連続で発生していたにもかかわらず、「報告が上がってこなかった」として経営陣は認識していませんでした。

「知らなかった」は、内部管理体制の不備の証明です。この企業も上場審査で指摘を受け、申請を取り下げることになりました。

審査を通過するための36協定「運用」整備:実務ポイント5選

1. 協定内容を「現在の業務量」に合わせて見直す

まず直近3年分の実際の残業時間データを部門別・月別に集計し、現行の協定上限と照合してください。実態が上限を超えている部門・月があれば、協定の上限引き上げか業務量の削減のどちらかが必要です。

ただし上限を引き上げる方向での対処は、審査担当者に「過重労働を放置している」と映るリスクがあります。業務プロセスの改善や人員補充を並行して実施し、「残業削減の取り組み」を記録として残すことが重要です。

2. 勤怠データとPCログの「突合チェック」を定例化する

勤怠システムの打刻記録と、PCのログイン・ログオフ記録(あるいは入退室システムのデータ)を月次で突合し、30分以上の乖離がある従業員を抽出する仕組みを整備してください。

この突合チェックを人事部門が定期的に実施し、差分に関して本人と上長にフィードバック、正しい労働時間を把握します。また、その結果を経営会議などに報告する体制があることが、審査での「実効性の証拠」になります。

3. 特別条項の「発動記録」を完全に残す

特別条項を発動した月は、①発動の事由、②労働者代表への通知・合意の記録、③当該月の対象者と実績時間、④健康・福祉確保措置の実施状況――この4点をセットで記録・保存してください。

審査では過去2~3年分の記録を求められることがあります。今すぐ整備を始めることが不可欠です。

4. 労働者代表の選出プロセスを適正化する

労働者代表は、「使用者の意向に沿わない人を選べる仕組み」で選出されなければなりません。部門ごとの互選、または全社員アンケートによる選出が一般的です。使用者が推薦・指名した人物が代表になっている場合は、速やかに選出し直す必要があります。

選出の手続き(告示・投票・結果通知)を記録として保存し、次の協定更新時からは適正なプロセスが証明できる状態にしておいてください。

5. 残業状況を「経営情報」として可視化する

各部門の月次残業時間・特別条項の発動有無・上限超過リスクを、経営会議の定例報告事項として組み込んでください。これにより、経営陣がリスクをリアルタイムで把握し、意思決定できる体制が整います。

「現場任せ」から「経営マターの課題」へと36協定管理を引き上げることが、審査で最も評価されるガバナンスの証拠になります。

チェックリスト:36協定の「運用実態」を今すぐ確認する

以下の項目を人事担当幹部・CFOで確認してください。

□ 直近3年分の残業実績を部門別・月別に集計し、協定上限との乖離を把握している
□ 勤怠データとPCログ・入退室記録を月次で突合し、乖離を管理している
□ 特別条項の年間発動回数が6回以内に収まっている
□ 特別条項発動時の通知・合意・記録が毎回残っている
□ 2~6か月の残業平均が月80時間を超えていない
□ 月100時間超の残業者がいない(発生時は即日把握・是正できる仕組みがある)
□ 労働者代表が適正なプロセス(互選・投票等)で選出されている
□ 残業時間の状況が経営会議などで定期的に報告・議論されている
□ 「管理監督者」扱いしている管理職の要件充足を専門家に確認済みである

おわりに

36協定の問題は、「書類の不備」ではなく「組織の管理体制の問題」として捉えられます。

審査担当者が見ているのは、経営陣が労働時間リスクを正確に把握し、組織として是正できる仕組みがあるかどうかです。「提出はしていた」という事実は、その問いへの答えにはなりません。

N-2期(上場申請の2期前)からの運用改善と記録の積み上げが、審査通過の最低条件です。「まだ時間がある」と思っているうちに着手することが、上場延期という最悪の事態を避ける唯一の方法です。

宮嶋社会保険労務士事務所では、36協定の運用実態診断から、勤怠管理体制の整備・審査に耐えうる記録の構築まで、IPO準備企業に特化した支援を行っております。「自社の実態がどこまで問題なのか確認したい」という段階からでも、ぜひご相談ください。

投稿者プロフィール

宮嶋 邦彦
宮嶋 邦彦代表社員 
2000年、28歳で未経験ながら宮嶋社会保険労務士事務所を開設。
証券会社にて公開引受審査の監修や実査を行い、IPO労務支援の先駆者として多くの企業の上場を支援する。自身も上場企業の役員の経験があり、審査する側とされる側の経験を持つ稀有な存在。
企業のビジネスモデルを踏まえた、形式だけではない実質基準のコンサルティングを行い、高い信頼と評価、そして実績を残している。
開業時から多くのスタートアップの支援を行い、近年では、大学発スタートアップのコミュニティの支援も行っている。