はじめに――退職代行は「他社の話」ではない
「本日をもって退職いたします。今後の連絡はすべて弊社を通じてお願いします。」
ある朝、こうしたメールや電話が退職代行業者から届く――。2026年4月の東京商工リサーチの調査によると、2024年1月以降に退職代行サービスを通じた従業員の退職を経験した企業は全体の8.7%で前回調査(2025年6月)から1.5ポイント増加しています。また、前回2025年調査では大企業の15.7%が退職代行を経験しており、継続的に増加傾向にあります。もはや退職代行は「若者の特殊な行動」ではなく、どの企業にも起こりうる日常的なリスクです。
上場準備企業にとって、退職代行が問題になるのは「突然の人員喪失」という実務上の問題だけではありません。退職代行の利用が増加している職場環境は、IPO審査において「ガバナンス・労務管理・人材定着の観点で問題がある職場」として評価されるリスクを孕んでいます。
本コラムでは、退職代行が上場審査にどう影響するか、そして退職・離職リスクを経営課題として管理するために何を整備すべきかをお伝えします。
退職代行が上場準備企業に与える3つの審査上のリスク
① 「引き継ぎ不能」が業務継続リスクとして評価される
退職代行の最大の特徴は、当日または翌日から出社しないという「即時退職」です。退職代行業者は「本人への直接連絡を禁じる」よう会社に伝えることが通例であり、引き継ぎを求めることも事実上困難になります。
上場審査では、特定の人物に業務が集中している「属人化リスク」が厳しく問われます。退職代行によってキーパーソンが突然いなくなった場合、審査担当者は「この企業の業務継続性に問題はないか」という目線で見ます。特にシステム管理・顧客対応・経理など代替が難しい職務の担当者が退職代行を利用した場合、審査への影響は深刻です。
「引き継ぎなしで業務が回るか」という問いへの答えが、内部管理体制の成熟度を示します。
② 有給休暇の一斉請求が労務管理の不備を顕在化させる
退職代行業者を通じた退職では、「退職日までの期間は全て有給休暇を消化する」という希望が伝えられるケースが多くあります。
有給休暇の取得は労働者の権利ですが、有給休暇の申請は労働者本人が行う法律行為です。弁護士・労働組合以外の民間退職代行業者が申請を代行することは非弁行為に該当し、法的効力を持ちません。したがって業者の種類によって会社側の対応が変わります。弁護士・労働組合による代行の場合は有効な申請として対応が求められますが、民間業者経由の場合は就業規則に定めた申請手続きに沿った対応が可能です。
いずれの場合も問題となるのは、この局面で「有給休暇の残日数の管理が不正確だった」「付与・消化の記録が整備されていなかった」という内部管理上の不備が一気に顕在化することです。審査担当者は有給休暇の付与・管理状況を確認します。退職代行対応をきっかけに記録の不備が明らかになった企業は、労務管理全体の信頼性を問われます。
③ 退職代行利用の背景が「ハラスメント・過重労働」のシグナルになる
退職代行を利用する従業員の理由として、「退職を言い出しにくかった」「パワハラ・セクハラの被害に遭っていた」「過重労働が続いていた」が上位に挙がっています。
退職代行が複数回・複数名にわたって発生している企業は、審査担当者に「直接退職を申し出られないほど声を上げにくい組織文化がある」と判断されます。これはハラスメント対応・労働時間管理・心理的安全性の問題と直結しており、内部管理体制の深刻な問題として評価されます。
退職代行の利用件数は、職場環境の健全性を測るバロメーターとして機能します。

退職代行が来たとき、会社が取るべき初動対応
まず確認すべき「業者の種類」
退職代行業者には3つの類型があり、会社側の対応が変わります。
① 弁護士による退職代行
退職意思の伝達だけでなく、未払い残業代・有給消化・損害賠償の交渉まで法的に対応できます。最も法的効力が強く、会社側は基本的に要求に従って手続きを進めることが求められます。
② 労働組合(ユニオン)による退職代行
団体交渉権を持ち、有給消化や退職条件について会社と交渉できます。交渉への対応義務が生じますが、法的トラブルへの対応範囲は弁護士より限定されます。
③ 民間の退職代行業者(弁護士資格なし)
「退職の意思を伝えること」のみが許されており、有給消化・条件交渉などは非弁行為として禁じられています。会社側から本人へ直接連絡を取ること自体は法的に禁じられていませんが、退職妨害やハラスメントと受け取られるリスクがあるため、実務上は慎重な判断が求められます。退職意思の伝達自体は有効なため、退職手続きは進める必要があります。
初動対応の4ステップ
- 業者の種類と連絡内容を書面(メール等)で記録する
- 民間業者の場合、本人への直接連絡は法的には禁じられていないが、退職妨害・ハラスメントと受け取られるリスクがあるため慎重な判断が必要
- 退職届・貸与物返却・守秘義務確認書の手続きを進める(民間業者経由の場合は本人へ直接依頼することも可)
- 有給休暇の残日数を即時確認し、業者の種類に応じた対応方針を決定する
退職を拒否したり、本人へ強引に連絡を取ったりすることは、損害賠償・ハラスメント認定のリスクを高めます。「円滑に手続きを進める」という姿勢が、法的リスクと審査リスクの両方を最小化します。
IPO審査を見据えた「退職・離職リスク管理」の整備ポイント
1. 退職手続きを「仕組み」として標準化する
退職代行の有無にかかわらず、退職手続きのフローの文書化が必要です。退職届の受理・有給消化の確認・業務引き継ぎチェックリスト・貸与物返却・社会保険喪失手続き・守秘義務・競業避止の確認――これらを「誰が担当しても同じように対応できる」仕組みとして整備することが、審査での内部管理体制の証明になります。
特に「退職代行が来た場合の初動マニュアル」を別途整備しておくことを推奨します。突然の連絡に現場が慌てて対応を誤ることが、後から法的・審査上の問題につながります。
2. 有給休暇の付与・消化・残日数を正確に管理する
年次有給休暇の付与日数・消化日数・残日数を、全従業員分リアルタイムで把握できる管理体制の整備が必要です。勤怠管理システムを活用し、いつでも正確な残日数が確認できる状態が審査上の要件です。
また、年5日取得義務(年次有給休暇の時季指定義務)の遵守状況の確認も必要です。取得義務を果たしていない従業員がいる場合、それ自体が法令違反として指摘されます。
3. 業務の「属人化」を解消する引き継ぎ体制を構築する
退職代行が来た場合に最大のリスクとなるのが、担当者しか知らない業務・情報・顧客関係の存在です。これは退職代行に限らず、突然の病気・事故への備えとしても重要な課題です。
各業務の手順書・マニュアルの整備、担当者が最低2名いる体制の確保、顧客情報・取引情報の会社管理(個人端末への依存排除)――これらを「事業継続性の担保」として整備する必要があります。審査では「キーパーソンが抜けても事業が継続できるか」が問われます。
4. 離職率・退職理由を経営情報として管理する
退職代行の利用件数・離職率・退職理由(可能な範囲で収集したもの)を、経営会議の定期報告事項として組み込むことが望ましいです。ガバナンスの証明並びに離職防止に対する実効性を高めます。
特に「退職代行が複数回発生している」という事実は、職場環境の問題を示すシグナルとして経営陣が認識すべき情報です。退職代行が来るたびに「現場の問題」として処理するのではなく、「なぜ直接言えなかったのか」という構造的な原因の分析と改善策の実施が求められます。これはIPO審査で問われる課題であるとともに、事業の継続性・成長性にも疑義が生じることになります。
5. 退職代行利用の背景にある職場環境問題を解消する
退職代行は「結果」であり、「原因」はハラスメント・過重労働・コミュニケーション不全・労働条件と実態の乖離のいずれかにある場合がほとんどです。
入社時の労働条件説明の徹底、1on1ミーティングの定期実施、ハラスメント相談窓口の実質的な機能確保、長時間労働の是正――これらの職場環境整備が、退職代行利用を減らす根本的な対策です。そして同時に、これらはすべてIPO審査で問われる内部管理体制の構成要素でもあります。

チェックリスト:退職・離職リスク管理の整備確認
以下の項目を経営幹部・人事担当者で確認する必要があります。
□ 退職手続きのフローが文書化され、退職代行対応マニュアルが整備されている
□ 全従業員の有給休暇残日数がリアルタイムで正確に把握できる体制がある
□ 年次有給休暇の年5日取得義務が全従業員で遵守されている
□ 主要業務の手順書・マニュアルが整備され、担当者が複数いる体制がある
□ 顧客情報・取引情報が会社管理され、個人端末への依存が排除されている
□ 守秘義務・競業避止の確認が退職手続きの標準フローに組み込まれている
□ 退職代行利用件数・離職率・退職理由が経営会議で定期報告されている
□ 退職代行が発生した際に職場環境の原因分析と改善策を実施する仕組みがある
□ 入社時の労働条件説明が書面で行われ、実態との乖離がない
□ ハラスメント相談窓口が実質的に機能し、定期的に相談状況を経営陣が把握している
退職代行への対応は「緊急時の処理」ではなく「内部管理体制の証明」です。今すぐ仕組みの整備に着手する必要があります。
おわりに――退職代行は「組織の鏡」である
退職代行を使う従業員は、「直接言えない理由」があります。その理由が何であれ、退職代行を選ばせる職場環境を作った責任は会社にあります。
上場準備企業が退職代行に直面したとき、問われるのは「その場の処理の上手さ」ではなく、「なぜそうなったのかを会社として理解し、改善できるか」です。退職代行の利用が増えている職場は、ハラスメント・過重労働・コミュニケーション不全という問題を抱えている可能性が高く、それらはすべてIPO審査で問われる課題です。
「退職代行が来た」という事実を、職場環境と内部管理体制を見直す機会として捉える必要があります。その姿勢そのものが、審査担当者に「ガバナンスが機能している経営陣」という評価をもたらします。
宮嶋社会保険労務士事務所では、退職・離職リスクの管理体制整備から、就業規則・退職手続きマニュアルの構築、職場環境改善のアドバイスまで、IPO準備企業に特化した支援を行っております。「退職代行の対応に不安がある」「離職率が高くて審査が心配」という方はぜひご相談ください。
参考データ・出典:
①東京商工リサーチ「2026年4月 企業の退職代行に関するアンケート調査」(2026年4月15日)
https://www.tsr-net.co.jp/data/detail/1202753_1527.html
②東京商工リサーチ「退職代行による退職、大企業の15.7%が経験」(2025年6月)
https://www.tsr-net.co.jp/data/detail/1201481_1527.html
③民法627条(期間の定めのない雇用の解約の申入れ)
https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=129AC0000000089
投稿者プロフィール

- 代表社員
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2000年、28歳で未経験ながら宮嶋社会保険労務士事務所を開設。
証券会社にて公開引受審査の監修や実査を行い、IPO労務支援の先駆者として多くの企業の上場を支援する。自身も上場企業の役員の経験があり、審査する側とされる側の経験を持つ稀有な存在。
企業のビジネスモデルを踏まえた、形式だけではない実質基準のコンサルティングを行い、高い信頼と評価、そして実績を残している。
開業時から多くのスタートアップの支援を行い、近年では、大学発スタートアップのコミュニティの支援も行っている。



