――「106万円の壁」撤廃とカスハラ義務化、駆け込みチェックリスト
2026年10月1日、労務管理に関わる2つの大きな法改正が同時に施行されます。ひとつは社会保険の「106万円の壁」撤廃(賃金要件の撤廃)、もうひとつはカスタマーハラスメント(カスハラ)・就活セクハラの防止措置義務化です。どちらも猶予期間がなく、施行日から一斉に適用される点で共通しています。一方は人件費・社会保険料という会計面、もう一方は相談体制・規程整備という組織運営面と、性質の異なる2つの改正が同じ日に重なるからこそ、どちらか一方への対応に追われて、もう一方の対応が手薄になりやすいのが実務上の落とし穴です。本コラムでは、施行3日前というこのタイミングで、IPO準備企業が最終確認しておくべきポイントを整理します。

変更①:社会保険「106万円の壁」撤廃
これまで社会保険の加入要件のひとつだった「月額賃金8.8万円以上」という賃金要件が撤廃され、週20時間以上働くパート・アルバイトは、賃金水準にかかわらず社会保険の加入対象になります。撤廃後は「週20時間以上」という所定労働時間の要件が実質的な判定基準となり、扶養の範囲内で働くことを前提にシフトを調整してきた従業員が、意図せず加入対象に切り替わるケースが増えると見込まれます。
加入漏れに気づいた企業が自ら申し出て是正すれば「新規加入」として扱われ、遡及請求は生じないのが原則ですが、放置したまま年金事務所の調査(立入検査)で発覚すると、原則として過去2年分の保険料が一括で請求され、延滞金(年8.7%程度に達することもある)も上乗せされます。なお、企業規模要件(現行51人以上)は今回の改正では変わらず、2027年10月から段階的に縮小されていく予定です。
変更②:カスハラ・就活セクハラ防止措置の義務化
職場での顧客等からの著しい迷惑行為(カスハラ)と、就職活動中の学生等に対するセクシュアルハラスメント(就活セクハラ)について、方針の明確化、相談体制の整備、事後の迅速かつ適切な対応、プライバシー保護・不利益取扱いの禁止といった措置が、事業主の法的義務になります。就活セクハラでは、保護対象が自社の労働者だけでなく、面接に訪れる求職者やインターンシップ参加者にまで広がる点が大きな変化です。
パワハラ防止法のときにあった中小企業向けの猶予期間は、今回は設けられていません。従業員を1人でも雇用していれば、企業規模を問わず2026年10月1日から一斉に対象になります。措置義務違反そのものに直接の刑事罰はありませんが、行政による助言・指導・勧告、勧告に従わない場合の企業名公表という措置が用意されています。
なぜ「同日に2つ」がIPO準備企業にとって厄介なのか
この2つの改正は、性質がまったく異なります。106万円の壁撤廃は主に人件費・社会保険料という会計面に影響し、正しく反映されていなければ財務諸表上の会計リスクとして扱われます。一方、カスハラ・就活セクハラ防止措置は主に規程・相談体制という組織運営面に影響し、対応不備は労務管理体制の実効性そのものへの疑問につながります。労務担当者が一方の対応に追われている間に、もう一方の対応が後回しになりやすいのが実務上の落とし穴です。
特に、拠点が複数県にまたがる企業や、パート・アルバイトの比率が高い小売・飲食・コールセンター等の業種では、社会保険の対象者リストアップだけでも相当な工数がかかります。人事労務の担当人員が限られているIPO準備企業ほど、片方の対応に集中している間にもう片方が手薄になる構造的なリスクを抱えている点に注意が必要です。
労務デューデリジェンス(労務DD)では、この2つの改正それぞれについて、施行日時点で対応が完了していたかどうかが個別に確認されます。片方だけ対応していても、もう片方が未対応であれば、「直近の法改正への対応漏れ」という同じ結論に至ります。対応漏れが複数同時に見つかれば、労務管理体制全体の実効性に対する評価が下がりかねません。

駆け込みチェックリスト(施行3日前)
□ 【社保】自社が現行の企業規模要件(51人以上)に該当しているか、従業員数を確認したか
□ 【社保】週20時間以上働くパート・アルバイトのうち、賃金要件撤廃後に新たに加入対象となる従業員をリストアップしたか
□ 【社保】対象者への説明・意向確認を済ませたか(就業調整を希望する従業員との協議を含む)
□ 【ハラスメント】就業規則・服務規律にカスハラ・就活セクハラの禁止規定を追加したか
□ 【ハラスメント】カスハラ・就活セクハラそれぞれの相談窓口と対応フローを整備したか
□ 【ハラスメント】面接官・リクルーター・OB/OG訪問対応者向けの研修を実施し、記録を残したか
□ 【共通】どちらの対応状況も、相談記録・研修記録・加入手続き記録として文書化できているか
よくある質問(FAQ)
Q. 106万円の壁撤廃とカスハラ防止義務化は、同じ日に施行されますか?
A:はい。どちらも2026年10月1日に施行されます。前者は年金制度改正法、後者は改正労働施策総合推進法・改正男女雇用機会均等法によるものです。
Q. どちらも猶予期間はありませんか?
A:ありません。106万円の壁撤廃は該当する賃金要件を満たす従業員がいれば即座に適用され、カスハラ・就活セクハラ防止措置は企業規模を問わずすべての事業主が対象です。
Q. 2つの改正のうち、どちらか一方だけ対応していれば問題ありませんか?
A:労務DDではそれぞれ個別に確認されるため、片方が未対応であれば、そのまま「法改正への対応漏れ」という指摘事項になります。両方の対応状況を同時に点検しておく必要があります。
Q. 対応が間に合わなかった場合、すぐに何か罰則がありますか?
A:カスハラ・就活セクハラ防止措置は、違反そのものへの直接の刑事罰はなく、行政指導が先行します。一方、社会保険の加入手続きを怠った場合は、厚生年金保険法上、届出の懈怠に罰則の定めがあります。いずれにしても、対応の遅れそのものが労務DD等での評価に影響する点は共通しています。
性質の異なる2つの改正が同じ日に施行されるからこそ、どちらか一方に気を取られて対応が漏れることのないよう、施行直前の今、両方まとめて点検しておくことをお勧めします。年内に労務DDや資金調達に向けた準備を控えている企業ほど、この10月1日を「対応済み」と胸を張って説明できる状態で迎えられるかどうかが、その後の審査対応のしやすさにも影響してきます。
投稿者プロフィール

- 代表社員
- 新潟県出身。大学卒業後、地方銀行に入行。資金調達や財務面に留まらない経営支援を志し退職。フリーター、経営コンサルティング会社、ベンチャー企業勤務を経て、2000年、当時最年少とされた28歳で宮嶋社会保険労務士事務所(東京都中央区)を開設。2002年より上場コンサルティング業務を開始し、2004年からは証券会社の審査部において公開引受審査の監修・実査に開業社労士として携わる。以来、IPO労務支援のパイオニアとして数多くの企業の上場を支援。自身も東証上場企業の監査役を務め、「審査する側」と「審査される側」の双方を経験する稀有な専門家として、実質基準に基づくコンサルティングを行い数多くのIPO企業を支援している。近年は大学発スタートアップの支援にも取り組んでいる。
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