不適切な固定残業代の設計・運用が招く未払い残業代リスク――問われる明確区分性と対価性

Point
  • 固定残業代(みなし残業代)は、一定時間分の時間外労働等に対する割増賃金を定額で支払う制度であり、制度自体は違法ではないが、「手当として払っている」だけでは有効とは限らない。
  • 判例上、通常の労働時間の賃金と割増賃金に当たる部分を判別できること(明確区分性)と、その手当が時間外労働等の対価として支払われるものであること(対価性)が必要で、固定時間を超えた分の差額も別途支払う必要がある。
  • 無効と判断されると、固定残業代として支払っていた金額が基礎賃金に算入されて時間単価が上がり、そのうえで割増賃金を改めて支払う必要が生じる(いわゆる二重払い)。
  • 月80時間分に相当する固定残業代を公序良俗違反で無効とした裁判例もあり、固定時間の設定そのものも問われる。
  • IPO準備企業は、就業規則・雇用契約書・給与明細・勤怠データを突き合わせ、実態として有効な制度になっているかを確認しておく必要がある。

――固定残業代が無効になる3つのパターンと「二重払い」のリスク

「基本給に残業代を含めているから、残業代は払っている」「手当として毎月払っているから問題ない」。固定残業代をこう理解している企業は少なくありません。しかし、固定残業代は要件を満たさなければ無効とされ、残業代を改めて請求される制度でもあります。労務デューデリジェンス(労務DD)でも頻繁に確認される論点です。本コラムでは、判例をもとに、無効になる典型パターンと確認すべきポイントを解説します。

固定残業代が有効になるための要件

固定残業代とは、一定時間分の時間外労働・休日労働・深夜労働に対する割増賃金を、あらかじめ定額で支払う制度です。労働基準法37条は、法定の方法で算定した額を下回らない割増賃金の支払いを求めているため、基本給や手当に割増賃金を含めて支払う方法が直ちに違法になるわけではありません。ただし、判例や実務上、次の3点が欠かせないとされています。

  • 明確区分性(判別可能性):通常の労働時間の賃金に当たる部分と、割増賃金に当たる部分とを判別できること
  • 対価性:その手当が、時間外労働等の対価として支払われるものとされていること
  • 差額精算:固定された額が法定の方法で計算した割増賃金を下回る場合、その差額を別途支払うこと

判例で見る、無効になる3つのパターン

パターン①:割増賃金に当たる部分が区別できない

判別可能性の考え方は、高知県観光事件(最高裁第二小法廷平成6年6月13日判決)以来の判例の流れです。テックジャパン事件(最高裁第一小法廷平成24年3月8日判決)では、月額41万円の全体が基本給とされ、その一部が割増賃金として区別されていなかったため、割増賃金を支払ったとはいえないと判断されました。医療法人社団康心会事件(最高裁第二小法廷平成29年7月7日判決)でも、年俸1700万円に割増賃金を含める合意がありながら、割増賃金に当たる部分が明らかでなかったため、判別できないとされました。高額の年俸であっても、区分されていなければ結論は変わりません。

パターン②:時間外労働の対価としての実質がない

日本ケミカル事件(最高裁第一小法廷平成30年7月19日判決)は、手当が時間外労働等の対価として支払われるものとされているかは、契約書等の記載のほか、使用者の説明内容や実際の労働時間などの事情を考慮して判断すべきとしました。同事件では契約書・賃金規程の記載や実際の時間外労働との乖離の小ささから対価性が認められましたが、固定分を超える残業の差額は審理のため差し戻されています。

一方、熊本総合運輸事件(最高裁第二小法廷令和5年3月10日判決)では、時間外手当が増えるとその分だけ調整手当が減り、賃金総額が時間外労働の多寡と関係なく決まる給与体系について、通常の労働時間の賃金の一部を名目だけ割増賃金に置き換えたものとして、割増賃金の支払いとは認められませんでした。歩合給から割増賃金相当額を控除する賃金規則も、同様に割増賃金の支払いとは認められていません(国際自動車事件・最高裁第一小法廷令和2年3月30日判決)。

パターン③:想定する残業時間が長すぎる

月80時間分に相当する固定残業代を定めた事案で、東京高裁は、月80時間程度の時間外労働が継続することは労働者の健康を損なうおそれがあるとして公序良俗違反で無効とし、法定の45時間分のみ有効とする一部有効も認めませんでした(イクヌーザ事件・東京高裁平成30年10月4日判決)。高裁の判断ですが、36協定の原則上限である月45時間を大きく超える時間を固定残業時間に設定している場合は、特に注意が必要です。

無効になると何が起きるか――「二重払い」の仕組み

固定残業代が割増賃金の支払いと認められないと、①割増賃金を支払っていないことになり、②固定残業代として支払っていた金額が基礎賃金に算入されて時間単価が上がり、③その単価で実際の時間外労働に対する割増賃金を改めて計算し直すことになります。訴訟になれば、遅延損害金や、未払額と同額までの付加金(労働基準法114条)が加わる可能性もあります。

たとえば、月給30万円(うち固定残業代5万円・20時間分)、月平均所定労働時間160時間の従業員が、毎月30時間の法定時間外労働をしていたとします。固定残業代が無効とされると、時間単価は1,875円(30万円÷160時間)、割増単価は約2,344円となり、毎月約7万円の割増賃金が新たに発生します。賃金請求権の消滅時効は当分の間3年のため、単純計算で1人あたり約253万円、10名なら約2,531万円に及びます。

なぜIPO準備企業にとって重要なのか

労務DDでは、就業規則・賃金規程・雇用契約書(労働条件通知書)・給与明細・勤怠データを突き合わせ、固定残業代が上記の要件を満たしているか、固定時間を超えた分が実際に精算されているかが確認されます。無効と判断されるおそれが残る制度は、遡及して支払うべき残業代が正しく人件費に反映されていなかったことを意味し、会計上のリスクとして扱われます。対象者が多いほど金額が大きくなるため、上場準備の終盤で発覚すると、スケジュールにも影響しかねません。

IPO準備企業が確認すべきポイント

  • 基本給と固定残業代が、金額と対応する時間数とともに、雇用契約書・賃金規程に区分して明記されているか
  • 求人票・労働条件通知書で、固定残業代を除いた基本給の額、固定残業時間と金額の計算方法、超過分を追加で支払う旨を明示しているか
  • 固定残業時間を超えた月に、超過分を実際に追加で支払う運用になっているか(給与明細・勤怠データで確認)
  • 手当の名目や金額が、実際の時間外労働の状況とかけ離れていないか
  • 固定残業時間が過大でなく、36協定の上限と整合しているか
  • 固定残業代を除いた基本給が、地域別最低賃金を下回っていないか(最低賃金の判定では固定残業代は算入されない)

よくある質問(FAQ)

Q. 固定残業代の制度そのものが違法なのですか?

A:違法ではありません。要件を満たせば、固定残業代の支払いによって割増賃金を支払ったものと認められます。ただし、明確区分性と対価性が必要で、固定時間を超えた分は別途支払う必要があります。

Q. 固定残業代が無効と判断されると、どうなりますか?

A:固定残業代として支払っていた金額が基礎賃金に算入されて時間単価が上がり、そのうえで実際の時間外労働に対する割増賃金を改めて支払う必要が生じます。消滅時効は当分の間3年で、訴訟では付加金が命じられることもあります。

Q. IPO準備企業は労務DDで何を見られますか?

A:就業規則・雇用契約書・給与明細・勤怠データを突き合わせ、明確区分性・対価性、超過分の精算の実態、固定時間数の妥当性が確認されます。

固定残業代は、正しく設計・運用すれば有効な制度ですが、「払っているつもり」で運用が形骸化していると、遡及して残業代を支払う事態になりかねません。上場準備の早い段階で、規程・契約書・給与明細・勤怠データの整合性を点検しておくことをお勧めします。

投稿者プロフィール

宮嶋 邦彦
宮嶋 邦彦代表社員 
新潟県出身。大学卒業後、地方銀行に入行。資金調達や財務面に留まらない経営支援を志し退職。フリーター、経営コンサルティング会社、ベンチャー企業勤務を経て、2000年、当時最年少とされた28歳で宮嶋社会保険労務士事務所(東京都中央区)を開設。2002年より上場コンサルティング業務を開始し、2004年からは証券会社の審査部において公開引受審査の監修・実査に開業社労士として携わる。以来、IPO労務支援のパイオニアとして数多くの企業の上場を支援。自身も東証上場企業の監査役を務め、「審査する側」と「審査される側」の双方を経験する稀有な専門家として、実質基準に基づくコンサルティングを行い数多くのIPO企業を支援している。近年は大学発スタートアップの支援にも取り組んでいる。