はじめに:「柔軟性」は武器にも凶器にもなります
スタートアップの強みのひとつは、組織の柔軟性です。大企業であれば何ヶ月もかかる人事異動が、スタートアップなら経営判断ひとつで数日以内に実行できます。「必要な人材を、必要なポジションに、必要なタイミングで」──この機動力こそが、急成長フェーズを支える大きな推進力となっています。
しかし、IPO(新規株式公開)を目指す段階になると、この「柔軟な異動」が一転してリスクの温床になるケースが後を絶ちません。
引受審査や労務デューデリジェンス(労務DD)では、過去の人事異動のプロセスが詳細に検証されます。そこで浮かび上がるのは、「悪意ある不当配転」ではなく、「善意による制度設計の不備」がほとんどです。「みんなで助け合う組織文化」を体現するつもりで行った異動が、法的には重大な問題をはらんでいた──そうした事例は、IPO準備の現場で繰り返し目にする光景です。
本コラムでは、スタートアップが陥りやすい配置転換・異動の設計ミスと、IPO審査で致命傷になるポイントを整理したうえで、今すぐ取り組むべき実務対策をご説明します。
第1章:スタートアップの異動が「法的グレーゾーン」に陥る構造的理由
「口約束採用」が生む職種限定リスク
スタートアップの採用現場では、雇用契約書よりも面接時の会話が実質的な契約内容になっているケースが多く見られます。「エンジニアとして入ってもらうけど、将来的には事業開発もやってほしい」「今はマーケだけど、ゆくゆくは何でもやってもらうよ」──こうした言葉が採用の決め手になっていても、書面に残っていなければ法的効力は薄くなります。
ここに大きな落とし穴があります。2024年4月の労働基準法施行規則改正により、「就業場所・業務の変更の範囲」の明示が義務化されました。採用時に「業務の変更可能性」を書面で明示していなければ、採用時の職種・業務に限定した雇用契約と解釈されるリスクが生じます。
さらに、2024年4月26日に最高裁が下した滋賀県社会福祉協議会事件の判決は、スタートアップ人事に大きな影響を与えました。
【最高裁判決のポイント(滋賀県社会福祉協議会事件・令和6年4月26日)】
「職種を限定する合意がある場合、使用者は労働者の同意なしに職種を変更する配転を命じることはできない」
→ ジョブ型採用・専門職採用が一般的なスタートアップにとって、決して他人事ではありません。
「ITエンジニアとして採用した社員をセールスに異動させた」「経理担当者を人事に兼務させた」──こうした判断が、同意なき配転として無効と判断されるリスクが格段に高まっています。
就業規則の「コピペ問題」
IPO準備企業の労務DDで頻繁に発見される問題のひとつが、就業規則における配転権規定の不備です。インターネット上の就業規則ひな型をそのまま活用していたり、設立時に作成したまま一度も見直していないケースでは、「会社は業務上の必要により、従業員に配置転換・転勤を命じることができる」という規定が存在しない、あるいは実態と乖離した内容になっていることが少なくありません。
配転命令権の根拠は、就業規則と雇用契約書の双方に「変更の範囲」として明記されていることが法的安定性の前提となります。この記載がなければ、過去に行ったすべての異動が遡及的に問題視されるおそれがあります。

第2章:IPO審査・労務DDで「配転リスク」が致命傷になるケース
審査で問われる3つのポイント
上場準備中に気を付けなければならないポイントは、主に以下の3点が精査されます。
① 異動の業務上の必要性が文書化されているか
「なぜこの時期に、この人を、このポジションに異動させたのか」という経営判断の根拠が、稟議書・人員計画書・異動理由書として残っているかどうかが確認されます。口頭の経営判断のみで行った異動は、後から「不当な動機・目的があった」と疑われるリスクにつながります。
② 対象者の個別事情に配慮したプロセスが記録されているか
育児介護休業法26条は、転勤により育児・介護が困難になる労働者に対し、使用者に配慮義務を課しています。2025年の同法改正により、この配慮義務はさらに実効性が強化されました。事前の家庭状況ヒアリングと面談記録の存在が確認されます。
③ 雇用契約書・就業規則と実際の異動が整合しているか
「限定正社員として採用されているのに、限定範囲外への異動が繰り返されている」「雇用契約書に変更の範囲の記載がない社員が複数回異動している」といった不整合は、「労務管理体制の未整備」として重大な指摘事項となります。
上場延期につながる最悪のシナリオ
最悪のケースは、異動を命じられた元社員が退職後に労働審判・訴訟を起こし、その係争が上場審査期間中に判明するパターンです。引受審査では、未解決の労使紛争は原則として「継続リスク」として評価されます。訴訟の規模や勝敗にかかわらず、係争中というだけで審査が長期化・停止してしまう事例は珍しくありません。
【ご注意】スタートアップの「過去の柔軟な異動」が、IPO直前期に時限爆弾として、表面化してしまうことがあります。これが配置転換設計ミスの最も深刻な帰結です。
第3章:スタートアップが今すぐ整備すべき5つの実務対策
以下の5項目を早期に整備することで、リスクを大幅に低減することができます。
対策① 雇用契約書・就業規則の「変更の範囲」を全件見直す
全社員の雇用契約書を確認し、「就業場所・業務内容の変更の範囲」が明記されているかをチェックしてください。記載がない場合は、本人の同意を得たうえで契約書を改訂します。同時に、就業規則の配転権規定が現状の採用形態(ジョブ型・限定正社員等)と整合しているかを確認し、必要に応じて改定・周知を行うことをお勧めします。
対策② 異動の「業務上の必要性」を必ず文書化する
規模が小さくても、すべての人事異動について「異動理由書」を作成する習慣をつけることが大切です。記載内容は、異動の目的・選定理由・対象者の状況・想定する効果で十分です。この文書が、後日の紛争時における最大の防御証拠となります。
対策③ 内示前に必ず個別ヒアリングと記録を残す
正式辞令の前に内示を行い(目安は1~3ヶ月前)、対象者の家庭状況(育児・介護の有無、配偶者の就労状況)を丁寧にヒアリングしてください。スタートアップの小規模組織では「知っているからいい」となりがちですが、面談内容は必ず書面で記録し、ファイリングしておくことが不可欠です。
対策④ 職種限定合意がある社員への異動は個別書面同意を取得する
専門職採用・ジョブ型採用で入社した社員に対して異動を命じる場合は、最高裁判例に従い、必ず個別の書面による同意を取得してください。口頭同意では後日のトラブルリスクが残ります。同意書には、異動先の業務内容・処遇・変更の理由を明記することをお勧めします。
対策⑤ 日常の対話で「突然の異動」を防ぐ文化をつくる
法的整備と同時に重要なのが、組織の心理的安全性の確保です。1on1等を通じて従業員のキャリア志向や家庭状況を日頃から把握しておくと、異動の際の摩擦を大幅に減らすことができます。「なぜ自分が選ばれたのか」「この異動がキャリアにどう活きるのか」を丁寧に説明することが、優秀な人材の流出防止とエンゲージメント維持につながります。これはIPO後の人的資本開示(有価証券報告書)においても、投資家が注目する指標となっています。

IPO準備企業のための 対策チェックリスト(配転・異動編)
| 確認項目 | 内容 |
|---|---|
| ① 業務の変更の範囲 | 雇用契約書・労働条件通知書に明示されているか |
| ② 就業場所の変更の範囲 | 2024年4月改正に対応しているか |
| ③ 配転権規定 | 就業規則に明確な根拠条文があるか |
| ④ 異動理由書 | 業務上の必要性が文書化されているか |
| ⑤ 事前ヒアリング記録 | 育児・介護状況の聴取記録があるか |
| ⑥ 職種限定社員の同意書 | 書面による個別同意を取得しているか |
まとめ:「柔軟性」を守るために「設計」が必要です
スタートアップの組織の柔軟性は、正しく設計されてこそ持続可能な強みになります。法的根拠のない異動の積み重ねは、上場が近づくほど重大なリスクとして顕在化してしまいます。
今必要なのは、硬直した大企業型の人事管理への移行ではありません。スタートアップらしい機動力を保ちながら、それを法的に裏付ける「最低限の設計」を整えることです。雇用契約書の見直し、就業規則の整備、異動記録の文書化──これらは一度整えてしまえば、その後の異動すべてを守る盤石な基盤となります。
IPO準備の早い段階で異動設計を見直すことが、上場審査における最大のリスクヘッジです。現状の労務管理体制に不安を感じていらっしゃる方は、ぜひ一度ご相談ください。
投稿者プロフィール

- 代表社員
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2000年、28歳で未経験ながら宮嶋社会保険労務士事務所を開設。
証券会社にて公開引受審査の監修や実査を行い、IPO労務支援の先駆者として多くの企業の上場を支援する。自身も上場企業の役員の経験があり、審査する側とされる側の経験を持つ稀有な存在。
企業のビジネスモデルを踏まえた、形式だけではない実質基準のコンサルティングを行い、高い信頼と評価、そして実績を残している。
開業時から多くのスタートアップの支援を行い、近年では、大学発スタートアップのコミュニティの支援も行っている。



