IPOの盲点「メンタルヘルスと休職者対応」:健全な組織運営を証明する安全配慮義務と人的資本経営の結節点

Point
  • 従業員のストレスチェックを「実施するだけ」で終わらせ、面接指導や集団分析結果の活用といった事後措置が不十分だと、IPO審査で「内部統制が機能していない」と判断される恐れがある。
  • メンタルヘルスへの取り組みは、欠勤やパフォーマンス低下を防ぎ生産性を高める「投資」であり、人的資本情報の開示に向けて企業価値を高める重要な要素である。
  • 企業のゴーイングコンサーンを守るためには、メンタルヘルス不調による安全配慮義務違反が招く損害賠償や信用失墜を避け、復職支援体制を含む適切な対応プロセスを整備、運用することが重要である。
  • 年度末の繁忙期に備え、管理職による変化の察知、相談窓口の再点検、長時間労働者への個別対応といった「予防的労務ガバナンス」を強化することが求められる。

はじめに:なぜ今、IPO準備において「メンタルヘルス」が問われるのか

2026年、日本のIPO市場において、企業の価値判断基準は財務指標のみならず、非財務情報である「人的資本」へと大きくシフトしています。その中でも、2月・3月という年度末の繁忙期を前に、改めてクローズアップされるのが「従業員のメンタルヘルス管理」です。

多くのスタートアップ・成長企業にとって、労働時間の管理(36協定遵守)はもはや「やって当たり前」の最低ラインとなりました。しかし、形式的な時間管理の裏側で、従業員の精神的健康状態が看過され、結果として上場審査の直前で「休職者の続出」や「安全配慮義務違反による訴訟リスク」が露呈し、上場延期に追い込まれるケースも想定できます。

本稿では、ストレスチェック制度の義務化対応を入り口に、メンタルヘルス対策を単なる「福利厚生」ではなく、「人的資本の最大化」および「ゴーイングコンサーン(企業の継続性)」を担保するための戦略的ガバナンスとして再定義します。

1. ストレスチェック義務化の「形骸化」が招くIPO審査での致命傷

労働安全衛生法により、従業員50名以上の事業場にはストレスチェックの実施が義務付けられています。IPOを目指す過程で組織が拡大し、この「50名の壁」を越えたばかりの企業において最も多い不備が、実施すること自体が目的化しているケースです。

審査で問われるのは「受検率」ではなく「事後措置」

IPO準備において単に「実施報告書」があるかどうかだけを見ているわけではありません。真に問われるのは以下のポイントです。

  • 高ストレス者への面接指導勧奨とその記録:産業医による面接指導が適切に案内され、本人の希望があった場合に確実に実施されているか。
  • 集団分析結果の活用:部門ごとのストレス傾向を把握し、職場環境改善(配置転換や業務量の調整)にどう繋げたかという「PDCAサイクル」の有無。

もし、高ストレス者が放置され、その後にメンタル不調による休職や離職が頻発している実態があれば、それは「内部統制が機能していない」との判断を下されるリスクを孕んでいます。

2. 人的資本経営の核心:メンタルヘルスは「コスト」ではなく「投資」

人的資本経営の文脈において、従業員の健康は「健康経営」の基盤であり、企業価値を左右する重要項目(マテリアリティ)です。

アブセンティーイズムとプレゼンティーイズムの解消

メンタルヘルス不調による欠勤(アブセンティーイズム)だけでなく、出勤はしているものの心身の不調によりパフォーマンスが低下している状態(プレゼンティーイズム)は、企業にとって目に見えない巨大な損失です。

IPO準備企業においては、限られた人的リソースで高い成長率を実現しなければなりません。一人のキーマンの離脱が、プロダクト開発の遅延や重要顧客の流出を招くスタートアップにとって、メンタルヘルス対策は「労働生産性の維持・向上」という直接的な投資なのです。

開示事項としての「従業員のウェルビーイング」

2026年以降、有価証券報告書における人的資本情報の開示はさらに深化しています。メンタルヘルスへの取り組み(例:ストレスチェックの活用状況、休職者の復職率、エンゲージメントスコアとの相関など)を定量的に把握し、説明できる体制を整えることは、投資家に対する強力なアピール材料となります。

3. 「ゴーイングコンサーン」を脅かす法的リスクと安全配慮義務

上場審査において最も重視される概念の一つが「ゴーイングコンサーン(企業の継続性の前提)」です。メンタルヘルス対応の過誤は、この前提を根底から揺るがす可能性があります。

安全配慮義務違反がもたらす損害賠償とレピュテーションリスク

従業員がメンタル不調に陥り、それが業務起因(長時間労働やパワハラ等)であると認められた場合、企業は多額の損害賠償責任を負うだけでなく、社会的信用の失墜を招きます。
「ブラック企業」というレッテルを貼られれば、上場後の採用競争力は著しく低下し、持続的な成長は困難になります。

復職支援(リワーク)体制の構築

休職者が出た際、安易に退職を促すような対応は論外です。

  • 主治医・産業医との連携プロセス
  • 試し出勤制度などの復職支援プログラム
  • 復職後の業務軽減措置の基準

これらのプロセスが規程化、フローとして確立され、実際に運用されていることは、企業に「予期せぬ事態へのレジリエンス(回復力)」が備わっていることの証左となります。

4. 2月・3月の繁忙期に向けた「予防的労務ガバナンス」の具体策

年度末は多くの企業で予算策定や決算準備、さらには新年度に向けた体制変更が重なり、従業員の負荷が最大化します。今、経営層および人事担当者が講じるべきアクションは以下の通りです。

  • ラインによるケアの再徹底:マネージャー層に対し、部下の「変化(勤怠の乱れ、態度の変化)」に気づくための研修を実施する。
  • ハラスメント相談窓口の有効性確認:匿名性が担保され、心理的安全性が確保された相談窓口が機能しているか再点検する。
  • 労働時間とストレスの相関分析:36協定ギリギリの労働が続いている部署に対し、産業医面談を優先的に設定するなどの個別対応を行う。

結びに:守りの労務から、攻めの経営戦略へ

メンタルヘルス対策を「義務だからやる」「問題が起きたから対処する」というフェーズで捉えているうちは、IPOの関門を突破することは難しいでしょう。

従業員の精神的健康をガバナンスの中核に据え、人的資本としての価値を最大化させる仕組みを持つこと。それこそが、証券会社や取引所から「上場企業に相応しい、持続可能な組織である」と評価されるための鍵となります。

宮嶋社会保険労務士事務所では、IPO準備企業特有のスピード感とリスクを理解した上で、ストレスチェックの活用から労務DD(デューデリジェンス)対策まで、一貫したサポートを提供しています。来るべき上場の日を、揺るぎない組織体制で迎えるために、今一度貴社のメンタルヘルスガバナンスを見直してみてはいかがでしょうか。

投稿者プロフィール

宮嶋 邦彦
宮嶋 邦彦代表社員 
開業社会保険労務士としては、日本で初めて証券会社において公開引受審査の監修を行う。その後も、上場準備企業に対しコンサルティングを数多く行い、株式上場(IPO)を支えた。また上場企業の役員としての経験を生かし、個々の企業のビジネスモデルに合わせた現場目線のコンサルティングを実施。財務と労務などの多方面から、組織マネジメントコンサルティングを行うことができる社会保険労務士として各方面から高い信頼と評価を得る。