TOKYO PRO Market(TPM)市場改革で見える「労務コンプライアンス」の進化と上場審査への影響

Point
  • TPM審査では、未払い残業代の排除・長時間労働に頼らない体制・社会保険・労働保険の加入・ハラスメント防止体制など、持続可能な成長を支える労務ガバナンスが主要な論点として厳しく確認される。
  • TPM審査は「形式中心」から「実態の運用確認」へと粒度が細かくなり、人的資本の観点も含めた運用エビデンスの確認が重視されるようになる。
  • TPM労務審査は、J‑Adviserのリスク感応度の上昇・一般市場との様式共通化・プロ投資家の流入によって事実上難化していく。
  • 上場準備企業は、労務監査の早期実施・HRテックによる管理の自動化・取締役会での労務報告の定例化の3点を軸に、労務リスクを解消し成長基盤を固めることが重要。

はじめに:東証の「上場目的開示」がTPMの存在意義を変える

2026年4月、東京証券取引所(以下、東証)が公表した最新資料は、TOKYO PRO Market(以下、TPM)のあり方を根本から再定義するものとなりました。特に注目すべきは「上場目的の開示」の義務化と、一般市場(グロース市場等)へのステップアップ支援の具体化です。

これまでTPMは、一般市場に比べて「形式的な審査基準が緩やか」と解釈されがちでした。しかし、今回の改革により、TPMは明確に「グロース市場等への登竜門」としての性格を強めています。これを受けて、上場準備企業が最も注視すべき領域が、企業の根幹を支える「労務管理」です。

本稿では、東証の最新方針を踏まえ、TPMにおける労務審査の論点、審査の粒度、そして今後の「審査難化」の可能性について徹底解説します。

1. 労務審査における主要な論点:TPM特有の視点

TPMの審査は、東証から委託を受けた「J-Adviser」が実質的な判断を担います。今回の改革で「一般市場への円滑な移行」が掲げられたことにより、審査における労務の論点は従来の「最低限の法令遵守」から、「持続可能な成長を支えるガバナンスとしての労務」へとシフトしています。

① 未払い残業代の徹底的な排除

依然として最大の論点です。TPM上場を目指す段階で、過去3年分の未払い残業代の有無は厳格にチェックされます。特に「固定残業代制度」の運用が適正か、管理監督者の範囲が法的に妥当か(名ばかり管理職ではないか)が、実態ベースで精査されます。

② 労働時間の客観的把握と「36協定」の遵守

東証の資料にある「将来を見据えた企業規模・業績の拡大」を実現するためには、長時間労働に頼らない体制が不可欠です。PCログや入退室記録を用いた客観的な時間管理が行われているか、また36協定の特別条項の適用回数が適切かなど、ITツールを活用した証跡管理が求められます。

③ 社会保険・労働保険の適正加入

当然の義務ですが、試用期間中の従業員やパート・アルバイトの加入漏れが散見されるケースがあります。TPM上場を機に「プロ投資家から資金を獲得する」以上、基本的なコストを適切に負担していることは、投資家保護の観点から外せない論点です。

④ ハラスメント防止体制と内部通報制度

東証資料4で触れられている「少数株主保護」や「取締役会レベルでの議論」は、健全な組織文化が前提です。パワハラ・セクハラの防止規定だけでなく、実際に機能している内部通報窓口があるか、通報者が不利益を被らない運用がなされているかが、J-Adviserのインタビュー等を通じて確認されます。

2. 審査の「粒度」はどう変わるのか

結論から言えば、「形式(規定があるか)」から「実態(運用されているか)」へと、審査の粒度は飛躍的に細かくなります。

運用エビデンスの重要性

これまでのTPM審査では、就業規則の整備といった「ドキュメントの整合性」が中心となるケースもありました。しかし、今後は以下のような「運用の証跡」が深く掘り下げられます。

  • 1分単位の打刻管理:5分単位・15分単位といった丸め処理がなされていないか。
  • 健康診断の事後措置:診断結果に対する産業医の意見聴取や、就業制限の実施記録が残っているか。
  • メンタルヘルスチェック:高ストレス者への対応フローが形骸化していないか。

経営資源としての「人的資本」の視点

東証資料1および東証資料4では「人的資本への投資」が繰り返し強調されています。労務審査においても、「不備がないか」という消極的なチェックに加え、「従業員のエンゲージメントをどう高め、離職率を抑制しているか」といった、非財務情報としての労務データも審査の文脈に含まれるようになります。

3. TPM労務審査の「難化」とその背景

今回の東証資料を受けて、TPMの労務審査は「事実上の難化」に向かうと予想されます。その理由は3点あります。

背景A:J-Adviserのリスク感応度の上昇

東証がTPM上場企業の一覧化(東証資料3の4ページ)を始め、その活用実態を周知する方針を打ち出したことで、上場を支援するJ-Adviser側の責任も重くなります。上場後に重大な労務違反が発覚した場合、J-Adviserの評価やブランドに直結するため、自ずと審査の目線は厳しくなります。

背景B:一般市場との「様式共通化」によるプレッシャー

東証資料3の5ページにある「一般市場上場の円滑化(有報様式の共通化等)」は、企業にとってメリットである一方、「TPM上場時点で一般市場と同等のクオリティの労務管理ができていること」を無言で要求しています。TPM上場時に労務を甘く見てしまうと、数年後のグロース移行時に「大規模な遡及修正」や「上場延期」を招くリスクが極めて高くなります。

背景C:投資家属性の変化(プロ投資家の目)

「特定投資家」への情報発信が強化される(東証資料3の5ページ)ことで、TPM市場にはより高度なESG視点を持つプロ投資家が流入します。彼らは「労務トラブルは経営上の最大のリスク」と捉えるため、審査段階での妥協を許さない土壌が形成されます。

4. 上場準備企業が今取り組むべき対策

難化する労務審査を突破し、TPM上場後の成長を確実にするためには、以下の3ステップが必要です。

  1. 労務監査(労務デューデリジェンス)の早期実施:J-Adviserによる本審査の前に、社会保険労務士や弁護士による専門的な監査を行い、潜在的なリスク(特に未払い残業代)を定量化・解消しておく必要があります。
  2. HRテックによる管理の自動化:「知らなかった」「管理しきれなかった」は通用しません。クラウド勤怠管理システムや給与計算ソフトを導入し、人為的ミスの介在しない体制を構築します。
  3. 取締役会への労務報告の定例化:東証資料4で示された「取締役会レベルでの実効的な議論」を実現するため、離職率や労働時間の推移を経営陣が把握し、改善策を講じるプロセスを確立します。

結論:TPMは「労務ガバナンス」を鍛える場へ

今回の東証の資料は、TPMが単なる「形式的な上場」の場ではなく、「中長期的な企業価値向上のためのガバナンス構築の場」であることを明確に示しました。

労務管理は、もはや管理部門だけの問題ではなく、東証資料にもある「目指す姿に向けた資本の使い方(人的資本への投資)」そのものです。審査の粒度が細かくなり、実態が問われるようになることは、適正な経営を行う企業にとっては、むしろ差別化のチャンスとなります。

TPMへの上場目的を「一般市場へのステップアップ」と設定するのであれば、労務の審査基準をTPM水準ではなく、あえてグロース市場水準に設定して準備すること。これこそが、新時代のTPM上場戦略における最重要の鍵となります。

投稿者プロフィール

宮嶋 邦彦
宮嶋 邦彦代表社員 
開業社会保険労務士としては、日本で初めて証券会社において公開引受審査の監修を行う。その後も、上場準備企業に対しコンサルティングを数多く行い、株式上場(IPO)を支えた。また上場企業の役員としての経験を生かし、個々の企業のビジネスモデルに合わせた現場目線のコンサルティングを実施。財務と労務などの多方面から、組織マネジメントコンサルティングを行うことができる社会保険労務士として各方面から高い信頼と評価を得る。