【IPO労務の誤解】グロース市場とTOKYO PRO Market(TPM)で労務審査基準は変わらない?「プロ市場なら緩い」という認識が招く致命的リスク

Point
  • 労務管理は「事業の継続性」と「財務諸表の信頼性」に直結しているため、市場の属性が違っても、労務審査の基準は変わらない。
  • TPMは形式面こそ柔軟だが実態面の違反は許されず、未払い残業代が発覚すれば簿外債務として利益を圧迫し上場基準を満たせなくなるリスクがある。
  • グロース市場・TPMの労務DDでは、労働時間の客観的把握・残業代の適正支払・社会保険加入・36協定遵守という労務の4項目が適正に守られているかが最重要ポイントとなる。
  • 順法と適正な人件費計上で企業の「真の収益力」が証明され、優秀な人材を確保・定着させるための労務コンプライアンスは「攻めのガバナンス」として機能する。

はじめに:市場が違えば「労務のハードル」は変わるのか?

IPO(新規上場)を目指す企業にとって、どの市場を選択するかは戦略上の大きな意思決定です。特に近年、上場までのスピード感や柔軟な審査体制から「TOKYO PRO Market(以下、TPM)」を選択し、そのステップアップとして「グロース市場」を見据える企業が増えています。

その際、経営者や準備担当者の方から頻繁に受ける質問があります。

「TPMなら、グロース市場よりも労務審査は緩いですよね?」

「プロ向けの市場なのだから、多少の未払い残業や社会保険の不備は許容されるのではないか?」

結論から申し上げます。労務に関する「順法性」と「計上の適正性」という点において、グロース市場とTPM市場の審査項目・基準に本質的な差はありません。

むしろ「プロ市場だから緩くていい」という誤解こそが、上場審査の土壇場で「重大な不備」として指摘され、上場延期や断念に追い込まれる最大の要因となっています。本稿では、なぜ労務だけは市場を問わず「一律の厳しさ」が求められるのか、その理由と実務上の重要ポイントを徹底解説します。

1. 労務は「どの市場でも共通」の土台である理由

なぜ市場の属性が違っても、労務審査の基準は変わらないのでしょうか。それは、労務管理が「事業の継続性(ゴーイング・コンサーン)」と「財務諸表の信頼性」に直結しているからです。

① 法令遵守(コンプライアンス)に「市場差」はない

労働基準法、労働安全衛生法、社会保険諸法令。これらの法律は、企業の規模や上場市場によって適用基準が変わるものではありません。日本国内で事業を営む以上、全ての企業に等しく課せられる最低限のルールです。「プロ向け市場だから労働基準法を一部守らなくてよい」という理屈は通用しません。審査を行うJ-Adviser(TPMの場合)や証券会社・東証(グロース等の場合)も、法令違反を放置したまま上場を承認することは、社会的責任の観点から不可能です。

② 労務コストは「見積もり」ではなく確定債務として「事実」の計上

労務管理における最大の審査ポイントは、「人件費(未払い残業代等)が適切に計算され、財務諸表に反映されているか」です。

  • 勤怠管理が杜撰で労働時間が把握できていない
  • サービス残業が常態化している
  • 社会保険の加入漏れがある

これらは単なるコンプライアンスの問題にとどまらず、「本来支払うべきコスト(負債)が隠れている」ことを意味します。適切な人件費や社会保険料が計上されていない決算書は、投資家に対する情報開示として「不適切」と判断されます。この「会計の適正性」に対する要求水準は、TPMであってもグロースであっても何ら変わりません。

2. TPM市場でよくある「労務の勘違い」を是正する

TPMは、一般投資家ではなく「特定投資家(プロ)」を対象としているため、開示項目や形式面では確かに柔軟な部分があります。しかし、それが「実態の不備を認める」ことと同義ではない点に注意が必要です。

「形式の柔軟性」と「実態の厳格性」の混同

TPMの審査では、グロース市場等に比べてJ-Adviserによる独自の判断基準が尊重される側面はあります。しかし、それは「運用の形式(例えば、就業規則の細かな文言など)」の柔軟性を指すものであり、「残業代を払っていない」「最低賃金を下回っている」といった実体的な違反を容認するものではありません。

未払い残業代という「簿外債務」の怖さ

もし「TPMなら緩いだろう」と高を括り、未払い残業代の精算を後回しにしたまま上場準備を進めた場合、どうなるでしょうか。審査の過程で、過去2年(あるいは3年)に遡って多額の未払い金が発覚すれば、それは「引当金」として計上、あるいは「一括支払い」を求められます。これにより、直前期の利益が吹き飛び、上場基準(利益要件や純資産要件)を満たせなくなるリスクがあります。

3. グロース市場・TPM共通の「最重点」審査項目

両市場において、労務監査(労務DD)で必ずチェックされる共通項目は以下の通りです。これらは「最低限守らなければならないハードル」です。

① 労働時間の客観的把握

自己申告制ではなく、ICカードやPCのログ等の客観的な記録に基づき、1分単位で労働時間を管理しているか。これが全ての基盤です。

② 残業代の適正支払

固定残業手当(みなし残業代)を採用している場合、その金額を超過した分が適正に計算・支給されているか。また、管理監督者の範囲が法的に妥当であるか(いわゆる名ばかり管理職問題)は、最も厳しく見られるポイントです。

③ 社会保険の適正加入

試用期間中の従業員やパート・アルバイトを含め、加入義務のある者が全て加入しているか。社会保険料の会社負担分は「適切な人件費計上」の観点から極めて重要です。

④ 36協定の遵守と過重労働対策

36協定の特別条項を超えた残業が発生していないか。また、メンタルヘルス対策やストレスチェックが適切に行われているか。これらは「従業員の健康」を守るだけでなく、企業の安全配慮義務違反(損害賠償リスク)を避けるために不可欠です。

4. 労務を「コスト」ではなく「ガバナンス」と捉える

IPO準備における労務の是正を「面倒なコストアップ」と考えている間は、上場への道は遠いと言わざるを得ません。

順法は「適切な利益」の裏返し

最低限の法律を守り、適切な人件費を計上することは、その企業の「真の収益力」を証明することに他なりません。サービス残業で成り立っている利益は「偽りの利益」であり、上場企業としてのゴーイング・コンサーンを保証できないからです。

労働市場における競争力の確保

今やSNSや口コミサイトで、企業の労務実態は瞬時に拡散されます。上場審査をパスするためだけではなく、優秀な人材を確保・定着させるためにも、労務コンプライアンスは「攻めのガバナンス」として機能します。

5. まとめ:市場を問わず「労務の適法・適正化」は最優先事項

「グロース市場を目指すから厳しくやる」「TPMだからこれくらいでいい」という二段構えの考え方は、現代のIPO実務においては通用しません。

労務はどの業界、どの市場においても共通のインフラです。

  • 順法なくして、企業の持続性なし
  • 適正な計上なくして、財務の信頼性なし

これからIPOを目指す企業の皆様におかれましては、市場選択に関わらず、まずは「当たり前の労務管理」を早期に確立することをお勧めいたします。早い段階で労務DD(デューデリジェンス)を実施し、潜在的なリスクを洗い出すことが、結果として最も安価で最短の上場への近道となります。

宮嶋社会保険労務士事務所では、TPM上場からグロース市場へのステップアップまで、多くの企業の労務コンプライアンス構築を支援してまいりました。市場の枠を超えた「本質的な労務管理」の実現に向けて、共に歩んでいきましょう。

投稿者プロフィール

宮嶋 邦彦
宮嶋 邦彦代表社員 
開業社会保険労務士としては、日本で初めて証券会社において公開引受審査の監修を行う。その後も、上場準備企業に対しコンサルティングを数多く行い、株式上場(IPO)を支えた。また上場企業の役員としての経験を生かし、個々の企業のビジネスモデルに合わせた現場目線のコンサルティングを実施。財務と労務などの多方面から、組織マネジメントコンサルティングを行うことができる社会保険労務士として各方面から高い信頼と評価を得る。